16桁の交わり
周知の通り,僕は生活の9割を通信販売に依存しているので,クレジットカードの利用頻度がとても高い.
実店舗での支払いでもいちいち現金使うのがめんどくさいなという気持ちも大いにあるし.
そんなわけで,最近3枚目のカードを作ったのだが,与信額(利用限度額)がなんと10万円だった.生活費専用か?
人間関係においての信用が地に落ちている僕にとって,唯一自分を信頼してくれるのがカード会社だったはずなのだが.
ついに人間社会からの信頼もなくなってしまったのか,などと思いながら色々見ていると,どうやらカードの与信額はカード会社全体で分配されているようである.(ブラックリストが共有されている時点で考えればわかったことなのかもしれないね)
つまり,僕の”信用”の残りが大体10万円くらいだった,ということらしい.
となると,利用しているカードの限度額の合計がだいたい社会からの信用度を表しているようなものなのか,とか思いながら.
よく(よく?),友達にお金を貸すならいくらまで?とか言う雑話を耳にするが,社会からの回答は簡単な足し算でわかってしまうみたいです.
彼らは僕の内面を知らないので大きい額を貸そうとしてしまうのでしょう.
ところで,この”信用を分割する”という考え方,人間の関わりにおける”信頼”においてはどうなんだろうか.
観察している限りの一般の人間関係において,誰かから信頼されている人は,別の人からも信頼されるような様子がある.ばいすばーさ.
果たしてこの状態は望ましいのか?
カードの限度額が共有されているのは,個人の返済能力に限度があり,かつ利用者が破産するとそれぞれの会社に損害が及ぶためだ.
じゃあ,信頼は?
信頼を形成し,信頼に応えるような行動がどういうものかは一概に決められるようなものではないが,少なくとも何らかのリソースを必要とすることが多いだろう.
となると,多くの人から信頼されることによって一個人が持つリソースの限度を超えるようなことが起こっているのではないか.
逆の立場から考えると,誰かを信頼するときに,相手はその信頼に応えられるだけの余裕がない場合が存在するのではないか.
カードにおける"信用"と人間関係の"信頼"で大きく異なるのは,個人に対しての強制力だ.
カード会社は法的な拘束力を持って個人に対して請求を行うことが出来るが,人間関係はただの御飯事,何の拘束力も持たない貸手不利な状態である.
「勝手にあいつが信頼してただけ」で片が付くのは大変楽で素晴らしいが,言われる側からすると心穏やかではいられなさそうで.
そうなると,他人と関わる上で一個人が受けるべき信頼の限度量を意識しておいた方が色々と都合は良さそうだな,と思う.
翻って,あまり他人から信頼されてない人間は寧ろ信頼に応えてくれやすいのかも.
あ,僕の信頼の限度量,全然空いてますよ.
どうです?