愚痴/無知の愚
やることが多い.
人間というやつらは,何故でやらなくてもいいことには没頭できるんだろうか.
単純にそれぞれの絶対量の問題?
最近はありがたいことにカレンダーに空白がないような日常を送らされているが,用事というものはどうしてこんなにも群生するのだろうか.
僕の周りで秘密結社でも出来ているとしか思えないほど用事がじゅうふくするのである.
6月中の候補日(全部で15日くらい)なら空いていると三者に伝えたところ,全員が同じ日を指定してきたり.
僕が求めてるのはキリスト的世界観じゃなくただの葉っぱなんだけども。
さて.
クライアントと日程を擦り合わせるとき,僕は基本的に曜日とか第n週という表現を使う.
意味が一意に定まるし,聞いただけで大体の位置が想像できる(これはだいぶ感覚的だけど)ので,とても気に入っている.
みんなハッピーだ.
しかし,クライアントによっては"n月上旬"などという奇怪極まりない表現を使う人間がいる.いてしまう.
これが数ヶ月先の話ならまだいいが,下手をすると今月下旬なんて言ってしまわれる人までいらっしゃる.
スケジュールの仮押さえをするにあたって,この表現は正直害悪である.
この一言によって,僕の貴重な貴重な10〜15日間に仮予約済みのシールが貼られてしまう.
こっち側のことを一切考えてないなあと溜息が出る.総計したら風船が膨らみきるくらいには.
上旬/下旬派と上旬/中旬/下旬派がいるのも地獄だ.
これによって認識に5日分くらいの差異が出ることもある.どこを取っても使えない表現だ.
(ちなみに僕は中旬アンチだ)
ミクロな時間設定,すなわち予定当日においても風船はよく膨らむ.
基本的に僕は用事の3時間前くらいからその用事に向き合う(用事までの道筋を確定させる)ことが多いので,理想を言えばそれくらいの時間には連絡が取れる状態にあってほしい.
ただ,先方が別の用事などで忙しいこともあるので,当日のうち設定時間までのどこかで連絡が取れれば問題ないと思っている.
だが.
3割は連絡がつかない.
設定時間が明確に決まっているならいいが,n時頃だとか,当日午後だとかの曖昧な時間設定のときに連絡がつかないと,相当にストレスを感じたりする.
(なお経験上,設定時間を明確に決める人は連絡も取れるし,曖昧に時間を決める人は連絡も取れない.せめて逆であれ.)
恐らく予定が不確定であれば,相手を待たせるという感覚(罪の意識)もなくなるのだろうと思う.
実際,n時頃と指定した人間は大体20分くらいに連絡してきて,特に何も無くミーティングが始まる.
定刻通り,というような認識なのだろう.
こちら側としてはn時の20分前くらいから当該タスクに意識を向けざるを得ないため,正味40分くらい待たされている感覚なのだが.
言ってしまえば,n時からやりますと言われて20分遅刻される方が大歓迎だ.なにせストレスが少ない.
こういう(曖昧な)時間の使い方,使わせ方をする人間は,恐らく自分の立場からものを見て考えているのだろう.自分が予定通り始めたのだから,相手にとっての時間ロスもゼロであろう,と.
そして多分遅刻をしたらしっかり反省するのだろう.別に彼らは悪い人じゃないので.
ただただ視点と思い遣りが欠如しているだけである.
はあ。
まだまだ書く予定だったけど,今の溜息で風船が破裂したのでここまでにします.
5月中旬,夏から距離を取りながら.
16桁の交わり
周知の通り,僕は生活の9割を通信販売に依存しているので,クレジットカードの利用頻度がとても高い.
実店舗での支払いでもいちいち現金使うのがめんどくさいなという気持ちも大いにあるし.
そんなわけで,最近3枚目のカードを作ったのだが,与信額(利用限度額)がなんと10万円だった.生活費専用か?
人間関係においての信用が地に落ちている僕にとって,唯一自分を信頼してくれるのがカード会社だったはずなのだが.
ついに人間社会からの信頼もなくなってしまったのか,などと思いながら色々見ていると,どうやらカードの与信額はカード会社全体で分配されているようである.(ブラックリストが共有されている時点で考えればわかったことなのかもしれないね)
つまり,僕の”信用”の残りが大体10万円くらいだった,ということらしい.
となると,利用しているカードの限度額の合計がだいたい社会からの信用度を表しているようなものなのか,とか思いながら.
よく(よく?),友達にお金を貸すならいくらまで?とか言う雑話を耳にするが,社会からの回答は簡単な足し算でわかってしまうみたいです.
彼らは僕の内面を知らないので大きい額を貸そうとしてしまうのでしょう.
ところで,この”信用を分割する”という考え方,人間の関わりにおける”信頼”においてはどうなんだろうか.
観察している限りの一般の人間関係において,誰かから信頼されている人は,別の人からも信頼されるような様子がある.ばいすばーさ.
果たしてこの状態は望ましいのか?
カードの限度額が共有されているのは,個人の返済能力に限度があり,かつ利用者が破産するとそれぞれの会社に損害が及ぶためだ.
じゃあ,信頼は?
信頼を形成し,信頼に応えるような行動がどういうものかは一概に決められるようなものではないが,少なくとも何らかのリソースを必要とすることが多いだろう.
となると,多くの人から信頼されることによって一個人が持つリソースの限度を超えるようなことが起こっているのではないか.
逆の立場から考えると,誰かを信頼するときに,相手はその信頼に応えられるだけの余裕がない場合が存在するのではないか.
カードにおける"信用"と人間関係の"信頼"で大きく異なるのは,個人に対しての強制力だ.
カード会社は法的な拘束力を持って個人に対して請求を行うことが出来るが,人間関係はただの御飯事,何の拘束力も持たない貸手不利な状態である.
「勝手にあいつが信頼してただけ」で片が付くのは大変楽で素晴らしいが,言われる側からすると心穏やかではいられなさそうで.
そうなると,他人と関わる上で一個人が受けるべき信頼の限度量を意識しておいた方が色々と都合は良さそうだな,と思う.
翻って,あまり他人から信頼されてない人間は寧ろ信頼に応えてくれやすいのかも.
あ,僕の信頼の限度量,全然空いてますよ.
どうです?
流れていく前に (多分前編)
度々考えることの一つに,自分はどんな人間が嫌いなのだろうか,というものがある.
ある程度付き合いのある人間はその断片を耳にしたことがあるだろうし,肌で感じて推することも出来るかもしれない.
問題として感じているのは,いま僕自身が考えているものも欠片の寄せ集めにすぎないし,全体が何ピースのパズルなのかは知る由もないということ.
また,感覚としてこのパズルにはレイヤーがあって,平面じゃなく立体で考える必要があるのではないか,とか.
とりあえず,いま現在考えていることを遺して,言語化による整理とか後々何かの参考にしたりするとかしたい.今まで十数時間考えたことなんてどっかに霧散してしまったので.(まあ,骨子というか残滓というか,なにかそういうものは無意識化に残っているんだろうけど.)
やりかけの仕事だということは留意.
考えないもの(と考えるもの)
(こう書くとMECE意識してるっぽくてかっこよく見えるよね,とか.)
まず,明確に嫌いなものについてはここで扱う必要がない.
菖蒲の分類と同じで,境界を取り出してから物事を考えるほうが妥当性があると思ってるし.(一応誤解ないように書いておくと,僕はAIではない)
次に,個人との関係のうちに生じる要素,というか2要素以上の複合要因は考えない.(偏微分を高校生で習わない弊害である)
最後に,これを読んだ人間が僕を遠ざける可能性についても考えない.
こんな文章読む人間なんて元々僕のことを大好きか大嫌いかの二択だろうし.
嫌いな要素について
導入が長えよ.やっと本論.
まず大要因として,頭が悪いという概念を挙げる.
ただ,これはある種の複合要因というか,嫌いな要素をまとめて便宜上こう呼んでるにすぎない節があるので,これをいくつかの要素に分割し,かつ後に遺すに値するもののうちの一部を以下に載せる.
・論理力の(本質的な)欠如
ものを考える際に,一番の土台というか守るべき規則というか,なにかそういうものが論理だと思っている.これが欠けている人間と話すと,どこかで度し難く広範な断絶に直面する.
別に写像とか命題の対偶はいつでも真偽が一致するとか,そういうお勉強的な話の理解を問うているわけではなく(まあ突き詰めれば一緒だが),ただ日常に存在する論理を理解しろというだけの話である.因果推論の誤りも多分ここに含まれる.
最近気になった(気に障った)ファラシーの例をひとつ.
ぼく:恋人と出かけるなら二人きりがいい
敵:そうなんだ
(数日後)
ぼく:最近二人でカフェに行った
敵:付き合ってたんだ
ぼく:なんで?
敵:この前恋人とは二人きりで出かけるって言ってたじゃん
ぼく:ふむ(正気か?)
これほど露骨なこともそうないけど,これに近いような事例は無数に体験する.
日常会話すら儘ならない人間と僕がしたい会話ができるはずもないので,まあ残念という話だ.
付記
僕が(というか世界が)論理を好んで用いる理由は,恐らく論理の不変性(と普遍性)にあると感じる.
誰と会話する場合でも同じテーブルに着くことができ,そこには一様なカトラリーが並べられている.その状況が僕は心地良い.
また,感情という個人のパラメータにすぎないものを隔離するにも論理は役立つ.
属人性を排除した会話ができないことも,間違いなく僕の嫌いな要素のうちの一つだ.
この点については,別の嫌いな要素の下位に当たる部分なので,詳細はそっちで.
寝る前にさらっと思ったことを書いて寝ようと思ったのだが,まあ目論見が外れすぎた.結局1項目しか書いてないし.
書いてくうちに無数の要素が浮かんできたので,これを前編として続きをそのうち書くことになりそうで.
これが考え事の嫌いな要素だわよ
5つめのリフレクト
結局動かせないよね,という.
Twitterと違って使う習慣がついていないものを動かすのは意思が必要だということを改めて感じた.(まあ,そのTwitterも諸事情でほとんど使ってないんだけど.)
自分の思考を可視化することに確かな価値は感じているんだけど,その価値を実感するのは数か月後であって現在地点じゃないのがなかなか厄介で,未来のために現在の僕が割を食うみたいな構造になっているのがよくある不条理で.
夏休みの宿題ですら最終日に持ち越す人間にとって,反省の色は黒より白に近いものなのは自明なので,意識的に書きだす癖をつけないといつまでも記憶を空に流し続けることになりそう.
”「見られる」ことを前提とする文章を書く”という意識さえ捨てれば無限に書けそうなものだけどね.
現にTwitterはその感覚なわけだし.
まあ畢竟,インプットが無ければアウトプットも成し得ないというありきたりな結論に落ち着くのかもしれない.
その点,これからはもしかしたら書くことが増えるのかも?
そうだといいな.
翻訳書クソ邦題グランプリ
タイトルの通りである.
映画クラスタの間ではよく聞く話であるが,海外の作品を日本に輸入する際にクソみたいな改題が為されることが度々ある.
ということは,同様の構造を有している翻訳書でも同じようなことが起こっているのは想像に難くないだろう.
そういうわけで,僕がここ1, 2ヵ月の間に読んだ本に限定して,クソ邦題と感じた本ベスト3について,邦題と原題,そして原題を直接Google翻訳にかけたものを並べてみる.
普段あまり本のタイトルに注意を向けないような人でも十二分に言いたいことが伝わる内容になるだろう.
前提として,翻訳書を手掛けてくださった訳者の方には敬意を持っているし,日本人にわかりやすく,かつマーケティング的に優れたタイトルを考えた結果だということは理解しているつもりでいる.その上で,個人的に不服を唱えたいものを挙げている.
第3位 マイケル・サンデル著,鬼澤 忍訳『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)
原題: "The Tyranny of Merit: What's Become of the Common Good?"
Google翻訳: 『メリットの専制政治: 公益はどうなったのか?』
本書は,主にメリトクラシーは公共善であるか,という問いについて書かれた本である(たぶん).能力主義の功罪,そしてテクノクラートについてアメリカの例を用いながら論じており,とても面白かった.(多少著者の中立性を考える場面はあるが.)
さて,肝心の邦題だが,なかなか度し難いものがある.本書を表すにあたって『実力』を『運』に包含することは著者の意図から大きく外れたものであると言わざるを得ないだろう.詳しいことは割愛するが,この論法が罷り通ってしまうならこの世の全ては『運』という結論に落ち着くことになる.
Google翻訳のタイトル案は,Meritをメリットと訳出していることに問題はあれど,本書のテーマを端的に言い表したものであり,及第点くらいな気がする.
(付記:本書は全体的に訳が硬く(下手で),内容の難解さと相まって驚異の読み辛さを生み出していた.その点ももしかしたら心象に影響したのかもしれない.)
第2位 アミール・レバイン, レイチェル・ヘラー著, 塚越 悦子訳『異性の心を上手に透視する方法 Kindle版』(プレジデント社)
原題: "Attached: Are you Anxious, Avoidant or Secure? How the science of adult attachment can help you find – and keep – love?"
Google翻訳: 『添付: あなたは不安、回避、または安全ですか?大人の愛着の科学が、愛を見つけて維持するのにどのように役立つか』
最近人間の発達について調べているうちに,乳幼児の愛着行動に関しての興味が湧き,それっぽい文献を漁っていたところで出会ったのが本書である.
最初にこの書籍と出会ったのが海外のサイトであったため,僕が知っていたのは英語タイトルと大体の内容のみだった.そして翻訳書を探した結果,この邦題に出会ったのである.
初見の時は普通にミスかと思った.
本書の内容を簡単に説明すると,人間はその愛情表現の性質(アタッチメント・タイプ)によってN型,V型,S型に分けられ,それぞれ色々な特徴を持っているのでそれを理解して関わるべきだよね,という本である.全編を通じて『パートナーとうまくいく方法』について触れているものの,主題は人間の性質(アタッチメント・タイプ)についての解説である.
ここまで言えば,邦題のクソさが分かってくるのではないだろうか.
邦題のフォーマットで正しくタイトルをつけるのであれば,『異性と同性の心を上手に理解する方法』である.
インパクトのある書名で大衆の興味を惹くことが大事だということは前述の通り百も承知であるが,それにしても......という感じである.
仮に異性の心を透視したい人が本書を読んだとしても残念ながら透視はできないし(当然である),アタッチメント・タイプについて知りたい人間がこの本を読んでいるとあらぬ誤解を受けてしまう(ちょっとはずかしいし).
内容が学術的に優れている本だからこそ,タイトルにおいての恋愛推しはGoogle翻訳案程度に収めてほしかったです(はずかしいし).
栄えある第1位!!!
マイケル ピュエット, クリスティーン グロス=ロー著, 熊谷 淳子訳『ハーバードの人生が変わる東洋哲学: 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(早川書房)
原題: "The Path: What Chinese Philosophers Can Teach Us About the Good Life"
Google翻訳: 『道:中国の哲学者が私たちに教えてくれること』
閉口頓首!
以上!
このブログについて
前々から始めてみたいと思っていたはてなブログにようやく手を出すことにした.
僕はアウトプットの媒体として主にTwitterを使っていて,極稀にnoteを書いたりなどしているのだが,この二つの媒体では表現しきれないことが多すぎると感じることがとても多かった.
具体的に言えば,纏まった文章として世に出すことが憚られる,500~1000字程度の思考の書き連ねがそれだ.
日常生活において感じたこと・考えたことを適当に書くとだいたいそれくらいの文字数になるだろうが,それを何か可視化できる形で保存する術が僕にはなかったのである.(同様のプロセスで始めるに至った日記は1ヵ月と持たなかった,僕の日常は輝きに満ちていなかった.)
ということで,このブログでは日々感じた/考えた比較的どうでもいいことを書き連ねていくことにする.
更新は不定期(月1,2回くらいは書きたいものだが).
まあ,言ってみれば特に方針は決めていないが,まあそれなりに利用していけたら,と考えている.