ムラクナシタ.

長めのTwitter

流れていく前に (多分前編)

度々考えることの一つに,自分はどんな人間が嫌いなのだろうか,というものがある.

 

ある程度付き合いのある人間はその断片を耳にしたことがあるだろうし,肌で感じて推することも出来るかもしれない.

 

問題として感じているのは,いま僕自身が考えているものも欠片の寄せ集めにすぎないし,全体が何ピースのパズルなのかは知る由もないということ.

また,感覚としてこのパズルにはレイヤーがあって,平面じゃなく立体で考える必要があるのではないか,とか.

 

とりあえず,いま現在考えていることを遺して,言語化による整理とか後々何かの参考にしたりするとかしたい.今まで十数時間考えたことなんてどっかに霧散してしまったので.(まあ,骨子というか残滓というか,なにかそういうものは無意識化に残っているんだろうけど.)

 

やりかけの仕事だということは留意.

 

 

 

考えないもの(と考えるもの)

(こう書くとMECE意識してるっぽくてかっこよく見えるよね,とか.)

 

まず,明確に嫌いなものについてはここで扱う必要がない.

菖蒲の分類と同じで,境界を取り出してから物事を考えるほうが妥当性があると思ってるし.(一応誤解ないように書いておくと,僕はAIではない)

 

次に,個人との関係のうちに生じる要素,というか2要素以上の複合要因は考えない.(偏微分を高校生で習わない弊害である)

 

最後に,これを読んだ人間が僕を遠ざける可能性についても考えない.

こんな文章読む人間なんて元々僕のことを大好きか大嫌いかの二択だろうし.

 

 

嫌いな要素について

導入が長えよ.やっと本論.

 

まず大要因として,頭が悪いという概念を挙げる.

ただ,これはある種の複合要因というか,嫌いな要素をまとめて便宜上こう呼んでるにすぎない節があるので,これをいくつかの要素に分割し,かつ後に遺すに値するもののうちの一部を以下に載せる.

 

・論理力の(本質的な)欠如

ものを考える際に,一番の土台というか守るべき規則というか,なにかそういうものが論理だと思っている.これが欠けている人間と話すと,どこかで度し難く広範な断絶に直面する.

別に写像とか命題の対偶はいつでも真偽が一致するとか,そういうお勉強的な話の理解を問うているわけではなく(まあ突き詰めれば一緒だが),ただ日常に存在する論理を理解しろというだけの話である.因果推論の誤りも多分ここに含まれる.

 

最近気になった(気に障った)ファラシーの例をひとつ.

ぼく:恋人と出かけるなら二人きりがいい

敵:そうなんだ

(数日後)

ぼく:最近二人でカフェに行った

敵:付き合ってたんだ

ぼく:なんで?

敵:この前恋人とは二人きりで出かけるって言ってたじゃん

ぼく:ふむ(正気か?)

 

これほど露骨なこともそうないけど,これに近いような事例は無数に体験する.

日常会話すら儘ならない人間と僕がしたい会話ができるはずもないので,まあ残念という話だ.

 

付記

僕が(というか世界が)論理を好んで用いる理由は,恐らく論理の不変性(と普遍性)にあると感じる.

誰と会話する場合でも同じテーブルに着くことができ,そこには一様なカトラリーが並べられている.その状況が僕は心地良い.

 

また,感情という個人のパラメータにすぎないものを隔離するにも論理は役立つ.

属人性を排除した会話ができないことも,間違いなく僕の嫌いな要素のうちの一つだ.

この点については,別の嫌いな要素の下位に当たる部分なので,詳細はそっちで.

 

 

 

寝る前にさらっと思ったことを書いて寝ようと思ったのだが,まあ目論見が外れすぎた.結局1項目しか書いてないし.

書いてくうちに無数の要素が浮かんできたので,これを前編として続きをそのうち書くことになりそうで.

 

これが考え事の嫌いな要素だわよ